三月七日。木曜日。
 午前十一時。
 この時間ならいるとしたら、休みである彼だけのはずである。姉の家のインターホンか
ら、彼の家へ連絡する。案の定、応対に出たのは彼だった。
「何か御用でしょうか?」
 冷静に努めた声が返ってきた。
「あの、川窪と言います。昨日、携帯をそちらに忘れたんです」
「え?」
「これから伺っていいですか?」
「えっと、どういうことですか?」
「いずみちゃんと知り合いなんです。それで昨日一緒に遊んで頂いて」
「え、あ、はい」

 玄関のドアを開けたのは昨日見かけた彼だった。私を見て、動揺したような、してない
ような。
「携帯どこに置いたの?」
「あなたの部屋だと思う」
 そう告げると、さすがに彼はあわてた様子で探しに行った。机の上とは言わなかった。
彼には見つけられず、戻ってきた。
「どこにあるか見つからないんだけど」
「探してもいい?」
「うん」
もう、意外と普通みたいだ。状況の見込めたのかもしれない。私は彼の部屋に入り携帯を
見つけた。
「いずみちゃんとここで、パソコンしたんだ」
「そっか」
「叱らないでね?」
「まぁ、いつものことだから」
 その言い方に兄妹だなって感じだ。
「あなたの名前は?」
 私は聞く。
「秀之」
「私は川窪美穂。同い年なんだよ、私たち」
「そうなんだ」
 私は一方的に話している。
「時間ある?」
「時間ならあるけど」
 彼は目も合わせずに答えた。

 私たち二人は近くにある喫茶店に行った。
 私は色々、話した。指定校推薦で年内に大学合格を決めていた事。意地になって勉強し
たから。意地になる理由。それは高一の時、同性に虐げられていたことが影響しているの
かもしれない、と。2年生になり、クラス替えによって、友達はできたが、私はどこかで
怯えていた、と。それは三年生のなっても続き、結局、卒業するまで続いた、と。
 彼も少し話してくれた。自分も推薦で決めたんだ、と。だけど、結構決まった後も悩ん
だ、と。ほんとは、もっと別の学校行きたかったんだ、と。それは、東京じゃなく、どこ
か、北海道と京都とか、海外とかもっと、違うところ。でもやっぱ、東京にある大学に通
う、と。
「あなたの机の上にあったノートを見たの」
 会話の切れ目で私は言った。彼は黙った。
「怒った?」
「ううん。オレなんてさ、君から比べたら、全然耐えるような苦しみなんて味わってない
のにさ。あんなのこと書いて。恥ずかしいな」
「ううん。きっとそういう人の方が書けると思うよ。私、中学時代は付けてた日記も高一
から、止まったまま」
 そこで会話も止まり、二人、黙った。
 彼は駅まで送ってくれた。別れ際に私は連絡先を渡した。
「メールでもしよ。私もパソコンやってるし」
「うん」
「いずみちゃんによろしく」
 改札を通って、振り向いて、彼に手を振った。彼は手を上げて返してくれた。
 地元に帰った私は駅ビルで日記帳を買った。日記でもまた、付けてみよう。昨日のこと。
今日のこと。

 三月九日。土曜日。
 午前十時頃、目が覚めた。そのまま三十分くらい起きずにベットの中でゴロゴロしてい
た。私はこんな風に過ごす時間が好きなのかも知れない。そんなぐうたらな自分を認識し
た後、意識してベットから転がり落ちた。想像くらいの衝撃を感じて目を覚ます。よし、
と、急に張り切りだしベットに足を掛け、腹筋を三十回した。忙しくない朝の日課である。
春休みになってからは、朝晩とやっている。目標は連続百回。
 起き上がり、パソコンの電源を入れて部屋を出た。レンジで牛乳をチンする。それを飲
みながら、部屋に戻りメールをチェックする。彼からメールが来ていた。

 『川窪美穂様。初めてメールします。岡馬秀之です。
 昨日は色々、お話できて楽しかったです。それは正直な所、思いがけないことでした。
 それは、あなたがキレイだからかもしれない。いきなりこんな事を書いて変な奴と思わ
れるかもしれませんが、素直なメールを書いてみたい。
 恋をしたくない訳じゃないけど、今はちょっとっていう部分があって、それをあなたと
会う前日になんかも友達と話したりしてて。なのに、あなたと会っていきなりそれが覆さ
れたのは、やっぱりあなたがキレイで。そんなだから、喫茶店であなたに気に入られよう
としてる自分がちょっと滑稽だったりもしたんだけど。つまり、恋なんてなんてと嘆いて
る奴でも、その渦中に放りこむくらいのあなたは美貌の持ち主だってことじゃないかな。
褒めすぎかな?でも、あなたに対して思うことはキレイだなぁって事なんだ。ボクの書い
た駄文が読まれてたと聞いても、そんなの取り繕う気も失せるくらい。素っていうか、自
然っていうか、ナチュラルっていうか。あの駄文も、エレベーターでのすれ違いも、喫茶
店での会話も、このメールも、とにかくボクです。だからなに?って思うかもしれないけ
ど、駆け引きみたいなの無しで書いてみた。読み返さないでこのまま送ります。』

 こんなメールが届いた。
 要するに、私に恋をしたって事かな。『私は、あなたを好きになりたい』とそれだけ書い
て返信した。
 夜に、また彼からのメールが届いた。

 『あなたは恋がしたいの?』

 そうかも知れない。私は恋がしたいのか知れない。高校時代、抑制していたものを卒業
した今、どこかに弾けさせたいのだ。

 三月十五日。金曜日。
 春休みももう二週間経つんだな、と飼い犬のウニと散歩の最中に唐突に思った。
 日々が過ぎていく。淡々と。
 私はこの休みの間、腹筋くらいしかしていない。あとは犬の散歩。まったく。昨日はホ
ワイトデーだったのか、なんて今気づいた振りでもしたくなる。
 ネットには日記を公開してる人が沢山いる。それも面白おかしく。良くも毎日書くこと
があるなぁなんて関心もするよ、こうも何もない日常が続く私には。
 毎日散歩のコースが同じ道ばかりだから退屈なんじゃないかと思えて、ちょっと遠くま
で行ってみようという気持ちになった。それがウニにも伝わったのか、いつもとは違う道
を歩き出したら、私を引っ張るように前を歩き出した。しっぽを振っている。変化は時に
モチベーションをあげてもくれるんだ。
 そして、私はいつかの公園まで歩いた。来て見たくなったんだ。まだ寒さも残る公園に
はさすがに誰もいなかった。寂しく思えた。自販機でお茶を買おうと硬貨を入れ、ボタン
を押そうとした時、視界に入ったココアが無性においしそうに感じられて、思わずそれを
押してしまった。出てきたそのココアの温かさを確かめようとするとピロピロと鳴り出し
た。当たり付きの自販機だった、と頭を過ぎるのと同じくらいにピーと鳴り出した。まさ
か当たったの?確認の意味でまたココアのボタンを押すとゴトンともう一缶が受け口に出
た。これってラッキーなんじゃない。でも冷静に考えるとココア二つも飲めないことに気
づく。それでも何だか日常のちょっとした嬉しい事には違いないのだからと私はコートの
ポケットに入れた。
 ベンチに座ってココアを飲みながら、今のこの事を秀之君へのメールに書いてみようか
なぁなんて考えて笑みが出た。
 恋がしたいのか。それは違うとは言わない。でも、それだけではない。私はもっと誰か
と関わりを持ちたいんだ。深く付き合いたい。私を知ってほしい。あなたを知りたい。考
え方。感じ方。なぜそう思うのか。教えて。私にも聞いて。そう。正面から向き合って話
がしたいんだ。
 秀之君に急にまた会いたくなった。
 
 三月二十八日。木曜日。
 私は電車に乗っていた。
 今度の目的は秀之君会うためだ。誰にも言ってない。秀之君にも。電話やメールでも今
日行くって事は秘密にしておいた。急に行って彼を驚かせたいんだ。
 午後の三時頃駅に着き、私は意気揚々と歩いた。
 マンションの前に着き、一呼吸付いてから彼の家の番号を押した。応対に出たのはいず
みちゃんであった。
「あ、この前のお姉ちゃん」
「久しぶりだね」
 いずみちゃんの声は弾んでいた。
「どうしたの?」
「うん。お兄さんいる?」
「お兄ちゃん?」
「うん。いる?」
 いずみちゃんから少しの戸惑いが感じ取れた。そりゃそうだ。
「あ、今日出かけてるんだ。」
「え、そうなんだ」
「うん」
「すぐには戻らない?」
「うん。多分中学のクラス会だって言ってた」
「そっかぁ。場所とか判らないかな?」
「んっと、ちょっと待ってて」
「うん」
 いずみちゃんは私の想いを察してくれたようにも思えた。感受性の強いコなんだ。
 少しして、マンションの入り口からいずみちゃんが出てきた。
「これ、場所が書いてある。駅前のね、反対側にちょっと歩いた所にあるお好み焼屋さん」
「ありがとう」
「ううん。いいよ、このくらい」
 いずみちゃんからその地図の書いてある用紙を受け取り、その場所に向かった。
 
 駅を過ぎ少し歩くとそのお好み焼屋さんはすぐに見つかった。店の前で貸切でない事を
確かめ、中へと入った。
「いらっしゃい」
 店員と目が合う。
「クラス会は?」
「あ、はい。二階のお座敷です」
 店員は階段を手のひらで示した。階段を登るときはさすがに緊張した。一段一段事にド
キドキが増す感じだ。二階に着く。靴を脱いで上がる。廊下で区切りお座敷が左右に2つ
に分かれている。どちらからも楽しそうな会話をする声が聞こえる。腰くらいの高さまで
ガラスで、その上は障子になっている。屈まなくては中のようすは伺えない。私には関係
ないクラス会である。結構マズイことかも知れないなんて不安に襲われ、とりあえず携帯
で秀之に連絡でもしてからと思った瞬間。
「あれ、誰だっけ?」
 知らない男性が部屋から出てきて声を掛けた。
「あの、えっと秀之君って」
「え?岡馬秀之のこと?」
「ええ、はい」
 その男性の目が秀之を探す。私もその開いた隙間から中のようすを覗く。
 秀之君はいた。隣には女の子がいた。その光景を見ただけで真っ白になった。
「あ、秀之、ちょっと」
 秀之君がこっちを向く。目が合う。驚く彼。私は居た堪れなくなり、その場を走り出し
て逃げた。靴を拾い、走って店を飛び出した。
 涙が突き上げた。
 駅のすぐ前には小さな公園があった。私はそこのベンチに座り込んだ。
 私は何をしたかったんだろ。ただ彼をイタヅラに困らせ、迷惑をかけただけだ。なんて
意味の無いバカな行動したんだろ。もう最低だ。涙が溢れて止まらなかった。
 そばに桜の木があった。見上げると蕾が膨らんでいた。
 もう彼に合わせる顔がない。とにかく謝ろう。帰ってメールで謝ろう。そうするしかな
い。私は調子に乗りすぎていたんだ。反省しよう。
 ここで泣き顔で佇んでいる自分も恥ずかしくなり、立ち上がった。さぁ帰ろう。
 駅に入ると、秀之君がいた。驚いた。私を探してくれていたのだ。目が合うと、今度は
笑ってくれた。堪らなく嬉しくなり、私は彼に駆け寄りキスをした。
 駅の中。沢山の人が見ていた。






この作品は、97年に書かれた物です。
当サイトでの公開にあたって、大幅な加筆訂正を行いました。
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